カテゴリー別アーカイブ: 2006

エレベーター15,000円

 最近「いざなぎ景気」を超える好景気が続いていると政府は発表していますが、私だけなのかは分かりませんがその恩恵を被る事や、その気配を感じる事は全くありません。一生懸命に働いても働いても、収入が増える訳でもなしに、それでいて税金や社会保険料等の控除額は減るどころか、新しい制度ができたりして実質的には増えている感がします。こんな事を私が言いますと周りの人たちは「あんたは社長やからそんなん関係ないやん」とよく言われますが、それは合っているようで、間違っています。
 そもそも株式会社というのは、株式を発行して株主を募り、その出資金によって会社を設立し、運営は株主から選ばれたものが行い、将来的には「上場を目的」とするというものです。それが現在では大企業やその関連企業でない限り、第三者から出資してもらえるような事はほとんどありませんので、実質的には社長や社長一族が出資者になるために、株主と役員がほぼ同一の人物となってしまい、役員自体も会社を私物化していくケースが多い為に、多くの方の誤解を生じさせている事になっています。
 それを整理して考えますと、例えば株主=社長である場合、社長としての立場は株主から依頼され会社を運営する一種の「サラリーマン」です。その為、社会保険や住民税、所得税などを給与から源泉されますので、従業員と全く同等です。また株主としての立場では、決算時に会社が利益をあげている場合は、その利益に応じて株主配当が支払われるのですが、零細企業ではかなり多くの利益を上げない限り、配当する事はないでしょう。また、会社が利益を上げても、その利益に対する税率は約40%もかけられますので、そんなに大きな利益を上げる事もできません。ですから上記のような株主=社長という図式は、一方では給与所得者、一方では株主という二つの立場でいるわけです。
 話は戻りますが、好景気?が続く中で政府では、増税や社会保険制度の見直しが図られ審議されていますが、必要な増税や見直しは当然に必要なものとしてすべきであるとは思いますが、大きい事では年金基金の無駄を非常識に通り越した浪費や、小さいことではタウンミーティングで発覚した「エレベーターのボタン押しで15,000円」などの税金や年金の使い道を間違うどころか、意図的に浪費させるような風潮を先に改善しない限り、そんな改正や改革をしてもまた「お金があるから使おう」となるに決まっていますので、誰と誰が付き合っているなどという報道に力を入れずに、その事をメディアがもっと深く掘り下げて訴えて、またもっと時間と労力を割いて、国民の皆が監視する風潮を造って欲しいと願います・・・。

いじめによる自殺

 ここ最近、いじめによる自殺報道が連日報じられています。今までも、いじめによる自殺は確かにありましたが、最近の件数の多さは家庭環境の変化や社会情勢が変ったと言えども異常な件数と言えます。
 有識者やジャーナリスト、芸能人や評論家の方たちは、連日TVや雑誌などで意見を交わし、何とか早まった行動を取らないようにと呼びかけていますが、それによって減るどころか次々と自殺者が出てきています。その中で一部の人たちは、報道する事によって余計に心理を煽り、自殺へと導いているのではないかという意見も言われていますが、その傾向は確かに無いとは言えませんが、逆にそういったことをしないようにメディアを通じて訴えていく事も重要なので、どちらが正解なのかは一概には言えないことだと思います。ただはっきりといえるのは、全部がそうだとは言いませんが、報道の仕方や伝え方が「芸能人の誰と誰が付き合っている」であるとか「この人がこんな事件を犯しました」などという興味本位で構成されているものと同じようになっているために感覚が麻痺してきて、「いじめられた=自殺」という図式が出来上がってきます。そして、もし私がその子達と同じ状況だとして自殺予告を宣言してしまえと決心する理由には「どうせ死ぬなら同じように皆に自分の状況を分かってもらって死のう。」となると思います。ですから伝えなければ問題となっている事に誰も気づかず、伝えれば伝えたで伝え方によっては前述のような事になるので伝え方というのは非常に重要だと痛感させられます。
 その中で、伝え方をより良い方向に持っていくにはどのようにしたらいいかと私なりに考えましたら、「事の本質」から掘り下げてその中で「できる事」をシンプルに捕らえることが重要だと思いました。諸悪の根源はは「いじめ」ですが、いじめに係わる双方の捕らえ方の違いや、人間の持って生まれた性質から考えていじめを無くすことは不可能に近いことであると判断すれば、「いじめをなくそう!」と表面的な事を訴えるのではなく、いじめがあるという前提で考える必要があるように思えます。いじめられて自殺宣告をする気持ちの奥底には、本心では「自殺宣告したら、もしかしたら自分を見つけ出してくれて、救ってくれるかもしれない。」と願っている気持ちがあるはずです。
 それを受入れ相談できる窓口をもっと増やしたり、その存在を今以上にアピールしたりする事やまた、相談したら仕返しをされるという悪循環を無くす為の方策や、いじめにあっている原因の追究と自覚がさせられるような相談員の教育や権限制度の導入を図るべきではないかと、第三者である責任の無い私は思います・・・。

新聞投稿

 先日、新聞の投書欄を読んでいましたら、ある記事に目が留まりました。それは、自転車に乗ってカーブを曲がったら携帯をずっと見ている歩行者にぶつかりそうになったので、「前を見て!」と叫んだら「すいません」と言って事無きを得たことや、また別の日に自転車を乗っていたら、猛スピードで無灯火で交差点へ入ってきた自転車に「危ない!」と叫んだら「うるさいババア!」と罵声を浴びて走り去った事などが書かれ、その方の意見として歩行者の携帯注視や無灯火自転車をどんどん取り締まって欲しいと切に訴えられていました。確かに自動車の無灯火は勿論の事、携帯使用なども取締りが厳しいのに、歩行者や自転車は危険度が少ない為か、取締りをしていた等とはあまり聞きません。しかし、危険な事には違いありませんので、もっとモラル的には、「してはいけない事」の一つとして定着しなければならない事の一つと言えるでしょう。
 私がこの記事を途中まで読んですごいと思ったことは、ぶつかりそうになった瞬間に「前を見て!」とか「「危ない!」と叫ぶ事ができるとっさの判断がこの女性にはできるんだと言う事でした。私なら恐らく「うわっ!」と言ってぶつかっていたであろうその瞬間に、その方は「前を見て!」であるとか「危ない!」と冷静に叫ぶという事ができたからです。ですからどんな凄い人が投稿しているのかと思い、投稿者の住所や年齢を拝見させて頂いたところ、なんと78歳の女性でした。それを見た瞬間、今までの思いから急に別のことを考えてしまいました。
 普通、年齢を重ねると反射神経が鈍くなってきます。運動神経も落ちてきます。バランス感覚も悪くなってきます。その中で、シニアオリンピックに出場できるくらいの能力の持ち主であれば別ですが、普通の78歳では20代の若者とは比べ物にならないくらいその能力は劣っているはずです。そう考えますと、携帯注視が悪いとか、無灯火が悪いという次元をさておいておけば、もしかしたらその女性が「危ない!」とか「前を見て!」と叫んだ状況は、言われた相手から見れば「全然危なくないやん」という状況であったかもしれません。いや、もしかしたらその相手からすれば、「あなたの方が危ないのと違うか?」という感じだったかもしれませんし、もっと極端な事を言いますと一概にそうとは言い切れませんが、高齢者が自転車に乗る事自体が、一般的には危険な事であるように思えたりします。
 そんなことを考えてますと、非常識な事柄は非常識な事として改めるべきではありますが、それ以外の部分では一方的に相手方を非難できる事柄というのは少ないように思えます・・・。

履修単位不足問題

 先日、ご存知のように高校の履修単位不足問題が発覚しました。初めは他人事ながら、こんな大きな問題が卒業半年前に発覚してしまった生徒達や先生達はさぞ大変なことだろうなと思っていましたが、何のことはない、全国の多くの進学校では当たり前のようにまた、故意的に偽装してまで必修単位を履修していなかったということです。
 これを知った時に私は、私が高校の時には将来のことや進学の事などは、現実逃避に近い考えで、時間の成り行きに任せて過ごしていましたので、これとこれの授業を受けなかったら、卒業できないといったような履修単位の事などは先生が管理してくれていて、自分自身では全く管理していませんでした。ですからその問題の高校3年生達の立場になったら「そんなアホな」ということになっているんだろうなと思っていましたら、中には自分達から学校側へ要求したというような事実もあったと聞き、今の子供たちは私の数倍大人なんだなと思いました。
ここでこの問題を私なりに整理してみますとこういう風になりました。
・国は、世界史や日本史や地理は、どんな生徒にも必要な勉強だから必須としている。
・生徒や親達は、世界史や日本史や地理を万遍なく履修とことは、受験に即した勉強することにならないので、履修したくない。
・学校は、生徒が希望する勉強をしたり、有名校に進学する為の勉強方法を取って評判の良い学校になりたい。
・それを知った国や世間は、「学校はとんでもないことをした」と非難している。
 確かに国や生徒や親、学校の言い分はそれぞれに分かります。しかしこの状態は、少し違いますが次の状態に似ているような気がします。
・国は事故を起こさない為に、現在の車と比較して著しく劣る性能の車しかない時代に法定速度を決め、しかもそれを改定していない。
・運転手は見通しの利く直線道路では安全と思うので、法定速度では走れない。また、法定速度で走っていたら、他車に迷惑が掛かるので、流れに乗って走りたい。
・警察は「法定速度を何キロオーバーです」と見通しの利く直線道路で違反切符を切る。
 結局誰もが「改善した方が良いのに」と思うような事を、愚痴では言いますが、他人任せにして根本的な改善をしようとしない結果が、色々な障害や不正、違反が生じる土俵を造っているのでしょう・・・。

 

不動産屋の将来

 私共の会社では、皆様お分かりのように不動産業を行っています。この商売をさせて頂いていてよく思うことがあります。それは特に大阪や兵庫などの関西圏で受託させて頂いている「新築マンションの販売」を行っている時に特にそう思うことが多いのですが、これだけたくさんの会社がこれだけ多くのマンションや戸建を開発し販売していますが、これが何時まで続くのだろうかという事です。
 島国である日本の国土のうち25%が平野です。残りの75%の山林部分は、バブル崩壊前までは宅地開発や工場用地の開発、ゴルフ場の開発などによって開発されてきました。これはこれからも継続的に続くであろう需要に応えるために開発されたものであり、誰もが今のような状況になるとは思ってもいなかった結果です。しかし、そんな需要も現在では非常に少なくなった為に山林開発は殆ど行われなくなり、既に開発された宅地はいくら安値でも取り引きがされなかったり、開発途中で手つかずの状況になっています。 
 そのような状況下で、現在は地価が下がり都心部へ回帰してきている人々が増えてきている為に都心部では不動産取引は活況ですが、少子高齢化が進む中、人口が減少しつつあるこの日本では、不動産取引に限らず多種多様な業種で需要の絶対数が減っていくことは明確となっています。そんな中で、確かに「衣食住」の業種は人が生きていくうえで必要不可欠なものであるため需要が無くなることはありませんが、こと「住」に関しては今住んでいる住居がほとんどの人にはある為、贅沢言わなければそこに住に続ければ新しい住居は必要なくなるので、結果として需要が非常に少なくある恐れがあります。こんな事を言いますと、私共のような不動産業者の存続自体が危ぶまれることになりますが、現実を直視しますとこの状況は避けることは出来ませんので、各社各業種の企業経営者は生き残りを賭けて必死に自社の将来の行く末を探っていることと思います。
 この問題を解決させ将来の日本を更に発展させる為には、子どもの数を増やせば全て問題が解決されると私も一時期思っていましたが、よく考えれば環境問題や教育問題など今抱えている問題点を根本的に解決させないことには、また違う障害が出てくることは明確です。
 しかしこんな大きな問題は政治家に任せてとか、大企業に任せて等と、今までは他人任せにしていましたが、人任せにして結果が最悪だった場合を考えれば、自分で何とかしようとがんばって最悪だったほうがいいので、少しずつやってみようかと考える今日この頃です・・・。

日の丸・君が代問題

 少し前の話ですが、東京都と都立高校教職員との争いで、「日の丸、君が代」問題の東京地裁の判決が言い渡されました。この問題は、歴史的背景や現代社会の実情、思想や自由の観点など実に奥深い問題で、一概にどちらが間違っているとか、合っているかという事を判断するのは非常に難しい事であると思われます。仮に東京都の立場から言えば、「国歌や日の丸に敬意を表し、起立することは教育者として当然」という意見でしょうが、教職員からすれば、「それは時代錯誤や自由意志の観点からもおかしいし、またそれにも増して通達に反した者が処分されるというのは行き過ぎ」という事で、意見や主張が確かに双方納得できます。
 しかし私は、その判決を言い渡されたニュースを見た時に、何か凄く違和感を覚えました。そのことを全部理解していない私が表面だけ見た上で「批判や誤解」を恐れずに正直に申しますと、以下のようなものです。
1.入学式や卒業式に君が代を歌う時に起立して歌う事が、なぜここまで問題になるのか?
また、99年8月に国旗国歌法が成立し、それまで君が代は公式に国歌でなかったものが国歌になり、日の丸が国旗と定められたという事は、法律で定められたものになっているにもかかわらず、また、ワールドカップやオリンピック、ボクシングなど、世界大会では当たり前のように君が代を斉唱し、国旗を掲揚するのに、なぜそこまで頑なに拒否するのか。それであれば、先述のオリンピックなどにもそういったことをさせないように何故世間に対し訴えないのか。
2.東京都はこの問題で、なぜ処分するまでに至ったのか?
私を含め恐らく多数の国民が、それほどこの問題をそんなに大きな問題と思っていないと思いますので、従わなくて処分されたらやりすぎのように思えます。勿論旧文部省と日教組が95年に事実上和解するまでの間やその後の話し合いの中でも、色々と確執があったとは思いますが、それでもやりすぎのように思えます。
 しかしこの問題を、私を含めて過去の経緯を詳しく知らない都立高校の生徒達が、表面上だけで判断しますとこうなるのではないでしょうか。私の先生は、決まりであっても自分達が納得しなければ守らなかった。守らなかったので処分された。処分されたので訴えたら認められた。と言う事は、自分たちも納得できない校則を守らなくても良くて、万一それで停学になったとしても、納得がいかなければそれをPTAや教育委員会に訴えたら処分を取り消してくれるだろうと・・・。

佐賀のがばいばあちゃん

 ある夕飯の席のことだった。「ばあちゃん、この二、三日ご飯ばっかりでおかずがないね」俺がそういうと、ばあちゃんはアハハハハハハハ・・・と笑いながら「明日は、ご飯もないよ。」と答えた。俺とばあちゃんは、顔を見合わせると、また大笑いした。今から四十年ほど前の話である。 徳間書店 佐賀のがばいばあちゃん より 
 もう既に読まれた方も多いと思いますが、話題になった当時から大分時間が経って島田洋七さんの「佐賀のがばいばあちゃん」を読ませて頂きました。読んだ人は皆「よかった。」と口をそろえて言っていましたが、私も読み終わって「読んでよかった本」と心から思えます。戦後の混乱期を終え、高度成長期を迎えた昭和30年代半ばに、当時でもかなりの貧しい生活を送らざるを得なかった幼年期に、豪快で底抜けに明るいおばあちゃんに一人預けられ育てられた実話を、面白おかしく、また涙溢れる体験談として語られている事に感動を覚えます。冒頭の文章は、この本の最初の書き出し部分なのですが、その後に続く文章も考えさせられるものがあります。
                   ・・・略・・・
「今、世の中はひどい不景気だ」とみんなは言うけれど、何のことはない。昔に戻っただけだと、俺は思う。変ってしまったのは、人間の方だ。
                   ・・・略・・・
お金がないから、不幸。今は、みんなが、そんな気持ちに縛られ過ぎていると思う。大人がそんな考えだから、子供も健やかに過ごせるはずがない。
                      同上
 確かに今の世の中、私を含めてお金はないよりあった方がいいという風潮があるように思われますが、この本を読み終えますと、そんなことは関係なく全て気の持ち様であるなと再認識させられます。そんな「がばいばあちゃん」の名言を何点かピックアップしてみます。
 ・貧乏には二通りある。暗い貧乏と明るい貧乏。うちは明るい貧乏だからよか。それも最近なったのと違うから、心配せんでもよか。自信を持ちなさい。うちは、先祖代々貧乏だから。
 ・人に気づかれないのが本当の優しさ、本当の親切。
 ・人間は死ぬまで夢を持て。その夢が叶わなくても、しょせん夢だから。
 ・通知表は0じゃなければええ。1とか2とか足していけば5になる。人生は総合力。
 こんな、「がばいばあちゃん」は91歳で大往生されたらしいのですが、2000年には「おさのばあちゃん生誕百年」の大宴会が開かれたそうです。
 こんな人を目指してがんばってみようと思います・・・。

人間の存在とは

 以前のコラムで書かせていただいた内容で、もしかしたら人類というのは凄く大きな生命体から見て、微生物のような物かもしれないし、そもそもその生命体という定義自体も地球上のものしか当てはまらない物かもしれません、ということを書かせていただきましたが、その事をもっと考えていましたら、次から次へといろんな愚説が出てきましたので、今回はその事に触れてみたいと思います。
 地球の寿命が太陽と同じく100億年と言われていますが、その内の約50億年が過ぎました。人間の平均寿命を80歳として地球は年齢で言うと40歳くらいになっているという事です。その地球に今まで存在しなかった生命体が1年くらい前に誕生し、そして進化してきました。恐竜などは半年前くらい前に発生し、すぐに滅びました。そして数日前に人類が登場しました。その数日しか存在していない中で、今一瞬で瞬きをしている間に急速に地球を汚染しています。これは考え方次第では、地球が少し風邪をひいたかなと思って免疫力で恐竜を滅ぼしたのだとすれば、人間の存在というのは地球にとって変なウィルスが発生したな、とすぐに感じだし、そのウィルスをまた免疫力で駆除にかかるのではないのでしょうか。
 こんな事を言いますと、何か現実的でもないことを言っているなあと、本心で自分でも思いますが、時間が経てばそれが馬鹿な事であったのか、本当の事であったのかははっきりします。しかし、悲しいかな人間の一生なんて物は、地球規模から考えれば瞬きの間さえもないのですから、この事がはっきりしますのは、私たちの子孫の何十代も後の事かもしれません。
 よく考えてみますと、人間というのはとても考え方の範囲が狭い生き物のようで、例えば科学で証明できないものは架空や仮想のものでしかなく、霊体やUFOなどはほとんどの人が、あるかもしれないがまあないだろうと考えています。しかしよく考えて見ますと、現代の科学で証明できる物は、この世の中に存在する「事実」の中でいったいどれくらいの割合で解明できているのでしょうか?まず100%という事はありえません。とすると80%なのでしょうか?いや50%なのでしょうか?正直、この割合さえもわかっていないのではないのでしょうか。何故ならその「事実」というものが、どれだけの量であるかもわかるはずもないので、割合を出す事が出来るはずがありません。
 なぜなら、それを極端に考えますと、銀河系自体を一つの細胞組織にしている生物体がいるとすれば、地球はそれを構成する原子で、人間はその原子の核にもならないのですから・・・。

キャンプ4

 今年もまた、夏休みの恒例である24時間テレビが放映されました。毎回、「最初から最後まで見よう」と思うのですが、いまだかつて一度もその夢は達成された事はありません。しかし、所々見ているだけでも感動させられまして、毎回瞳を潤ませています。こんなお涙頂戴の番組や本などが最近流行りのようですが、「泣く」とわかっていてわざとこんな番組や本を無性に見たくなるのは最近の傾向だからなのか、年だからなのか、自分では解明できませんでした。
 私どもの夏休みの恒例と言えば、キャンプ。甥っ子姪っ子を連れてのキャンプを、今年も行ってまいりました。このキャンプを始めた頃は、皆が中学生にもなったら「そんなもん、恥ずかしくてオッサンと行けるか」と言われる事を覚悟でやり始めましたが、早いもので一番上の子二人はもう高校生。その一番上の甥っ子が今年はなんと、「彼女」を連れての参加でした。向かった場所は「平成榛原子供のもり公園」。名張から近場で遊具や遊び場が整っているきれいなキャンプ場でした。そこでも今年も何ら事故や怪我もなく楽しく過ごせ、またひと夏の思い出が出来ました。
 しかし、高校生にもなってよく一緒に行ってくれるなぁと思いましたが、よく考えてみますとオッサンと一緒に行くというよりも、従兄弟や友達と会えて楽しめるということに喜びを感じていると考えれば、それも納得いきます。自分に当てはめますと、私が子供の頃は父が長男だった事で、毎年盆と正月には叔父、叔母その家族が一堂に大薮家に集まりました。しかし、父は7人兄弟なものですから、それこそ6畳しかなかった居間に総勢25人くらいで食事したり、騒いだりと、およそジャングルのような様相を呈していました。そんな中で、従兄弟や叔父、叔母に会うのは非常に楽しみでしたし、もしそんな恒例行事があったら自分も行っていただろうなとも思います。もしこれが、親と兄弟だけで行くとなると、たぶん乗り気でない事も、普段会わない従兄弟や叔父叔母となら気分が違うのだろうと勝手に納得してしまいました。
 今は私もいいオヤジになって、学生のころには嫌で仕方なかった兄弟や、特に親と一緒の外出も、逆にすごく楽しみになりました。しかし、何故あの頃はそう思ったのだろうと本当に「今」考えてみましたら、もしかしたら「一緒にいる時間が長いから」というのが自分の中で最有力候補に挙がりました。でも待ってください。
 その仮説で行けば、今一番一緒に外出したくないのは「妻」という事になりますが、そんな事は決して有り得ません、決して、はい・・・。

プレジデント

 先日、会社で定期的に届けてもらっている雑誌を読んでいると、「脳科学が実証!行動を起こせば、意識は変わる」という記事がありちょっと興味を持って読みました。そこには私自身の常識を覆す記事がたくさん掲載されていまして新鮮でした。その記事は始めに、「われわれの身体は脳によって支配されている」という大きな思い違いから脱する必要があり、現実はまったくその逆である、というのです。わかりやすくいえば、脳の意思によって何かをしたいとか、何か欲しいと思ったと錯覚しているだけであって、現実は身体が発した信号を脳が受け止めた結果にそういう欲求が出るというのです。
 また、脳のリハビリなどは老人よりも若者、若者よりも子供の方が成果が上がりやすいのは、脳の神経細胞は歳とともに減少するので、年齢が低いほど神経細胞の再生が活発だからである、という認識が一般的でしたが、最近になって生まれてから2歳までに神経細胞の約半数が失なわれた後は、100歳までほぼ同じ神経細胞を保ち続けるということが証明されたらしいのです。ですから身体が老化していくので脳に十分な信号が送られなくなるから、思考や記憶力が低下していくというのです。
 確かに人間の三大欲求である「食欲・性欲・睡眠欲」は、身体が欲するから欲求が出てくるというのは納得いきます。ただ、人間にはその他に物欲や支配欲などがありますから、それらは身体が欲しているからというのは少し違うような気がしますので、全てが身体の信号によって脳が支配されているということでなく、多くの部分で身体が支配しているのでしょう。
 その雑誌には、それらを科学的に証明できる細かい事項が記載されていましたが、私には理解できませんでしたのでそれらは省略させていただくとしまして、このことがわかると2行目に記載した「行動を起こせば、意識は変わる」が、今になって理解できてきました。例えば、自分にとって嫌な掃除や作業をする前はできればやりたくないと思うのですが、いざやり始めてしまうと意外と夢中になってやっていたりします。また、非常に困難だと思っていた仕事なども、いざやり始めると思っていた以上に困難であったとしても何とかやり遂げることができたりしました。
 そう考えますと、何かを始めるときにまず身体を動かしてみることが何よりも重要で、身体を動かさなければ心も前向きになりにくいということです。そして身体を動かしてみて、目標に達する自分自身をイメージしていけば、身体からの欲求も脳からの欲求も満たすことができるくらいの結果が残せる、ということではないでしょうか・・・。