カテゴリー別アーカイブ: 2005

健康

 胃潰瘍、結石、肝炎、糖尿病、ぎっくり腰・・・・。つい数年前まで自分には何の関係も無く、こんなものは年をとってからの病気だから、と思っていたものが他人事ではなくなってきました。世の中にある「モノ」全ては年数が経てば古くなってどこかしらに故障や不具合が出てくるものですが、それは人間の体も例外ではありません。しかし、人間の体とモノとの違うところをあげるとすれば、モノは使えば使うだけ磨り減ったり劣化したりしてそのままでは使えなくなってしまいますが、人間の体はある程度使って(運動など)おかなければ、不都合が生じる部分が沢山出てきます。またモノは悪くなった部分を取替え、修理することで本来の性能を取り戻すことや、より性能のいいものに取替えて全体的に性能アップさせることが可能ですが、人間の体は一部には移植や手術などで悪い部分を治すことは出来ても、基本的には従前の状態以上にまで戻すことはできません。ですから人は適度な運動や、規則正しい生活を送ることにより、その年齢にあった最適な体の状態を保っていかなければならないのは言うまでもありません。
 そんなことを考えていますと、ふと私が中学校か高校時代の先生に言われたことを思い出しました。それは「お前らな、体育の授業があるっていうことはホンマ幸せなことやぞ。まあ、今のお前らにそんなこと言うてもわからんやろうが、おれらみたいな歳になったらな、今俺が言うてることがよう分かると思うわ。」と言う台詞でした。
 確かに今となってみれば、強制的に運動が出来る環境があるということは非常に貴重なことで、今そんな運動をしようと思えばお金を払ってフィットネスクラブに通うとか、どこかの運動のサークルに入ってみんなの時間を合わせて運動するとかしない限り、意志の弱い私なんぞは一人で毎朝ジョギングをしたりするようなことは出来ないと確信できます。
 そんな中、運動ができないできないとやる気のない事ばかり言っていても仕方がないので出来ることから始めようと思い、ついこの前にホームセンターへ行き腹筋台と500円で満タンになれば50万円貯まる貯金箱を購入しました。そして毎日腹筋するごとにフィットネスクラブへ行ったと考えて500円玉2枚投入し、このダブダブになったおなかの引き締めと貯金が出来るというダブルの効果で毎日励んでいまして、とりあえずの目標は「貯金箱満タンまで」としています。
 しかし、後でよく計算してみますと毎日1,000円貯金しても50万円貯まるまでに500日もかかることが分かり、継続できるか不安です・・・。

幼児殺害事件

 また最近、連続して幼児殺害の事件が多発しています。この世に生を受けてから10年も経っていない幼児が殺害されるニュースを見るたびに胸が痛くなります。なぜ犯人はこんな幼い命を簡単に絶ってしまえるのでしょうか。当然に普通の思考をもっていれば、こんな残酷なことが出来るはずが無いと思いますが、これらの犯人たちは普通の思考で無い人だからこういった犯罪を犯すのでしょう。
 私はこのような報道を見るたびにいつも思うことがあります。一つは、このような報道をすることによって、異常な思考の持ち主が同じような犯罪を犯そうとするのではないのか、またその犯罪を詳細に報道すればするほどそういった人達の犯罪の手本になっているのではないかという事です。何かむしゃくしゃする、何か欲求が満たされないからと、異常な行動をするかもしれない人が、このような報道を見ることにより、「こんなことしてみよう」と思う人もいるはずです。しかし逆を返せば、こんな報道をしなければ、そういった危険が迫ってくるであろうという危機意識が  薄くなって無防備となり、余計に残忍な犯罪を横行させることにもなりかねないかもしれません。ですから報道というものはある意味では必要であり、ある意味では不必要であるという二面性をもっているということです。もう一つは、なぜ被害者の顔写真や実名が公表されるのか?ということです。報道サイドの意見では、被害者の実名が公表されない場合、その事件を報道する為の公平性や真実が薄れるので、警察サイドの発表だけに頼らずに、自らの取材で得た情報を加えることにより、公平性のある報道や真実の報道できるというのです。
 しかし実際に報道を見る側として、飛行機墜落事故など身内や知人の安否を確認したい場合には実名報道の必要性が感じられますが、このような事件の場合に実名報道や顔写真を掲載することにどれくらいの必要性があるのでしょうか?見る側としては顔写真を見て「こんなに小さいのにかわいそうに」と思うくらいが見る側の大多数のはずです。しかし被害者の家族は報道がどうのこうのよりも、身内がそのような事態になったことで、ただでさえ地獄のような辛い想いをしているときに、視聴率の為に各社が報道合戦を繰り広げ、また、周辺の人たちも興味本位で家の近くに行ったり、犯行現場に行ったりと犯罪による被害者家族が、報道による被害者家族という二重の被害者になってしまうのです。
 何度もこのコラムで言っていますが、報道をこんな内容にしているのは報道機関ではなく、その視聴者である私達ではないでしょうか・・・。

紅葉

 秋も深まり山の木々は勿論の事、街路樹なども紅葉の季節となり私たちの目を楽しませてくれる季節となりました。日本という国は、四季がある為に季節によってそれぞれの楽しみがあり、とてもすばらしい国に生まれ育ったことに感謝します。
 そんな日本では桜や落葉にかかわる意見などが、近年に発達してきたインターネットの掲示板や地元紙などのご意見板に掲載されています。その内容は「毎年この季節になると街路樹に色がつき始め、秋の訪れを感じさせてもらっていますが、この前の市の心無い伐採によりほとんどの枝が切り取られ、その楽しみを奪われました」などや「毎年子供も楽しみにしていた桜の季節が訪れましたが、今年は枝がほとんど伐採されていて楽しむことが出来ませんでした。こんなひどいことをしないでいただきたいものです」などです。確かに毎年の楽しみである桜や紅葉は、それこそCMではないですが「お金では買えない価値がある。」ものですから、誰しもがそれこそ維持できるものなら維持してほしいと思うはずです。ならば何故伐採されるのでしょうか?それは管理の問題です。
 「見る・楽しむ」だけの方はその季節になるととても見ていて楽しい思いをされることでしょうが、管理をする立場の方や、街路樹の前に住んでおられる方、商売されている方などはその季節になると、余儀なく大変な苦労をされます。桜の季節には散った桜の花びらの清掃や毛虫の対策や花見の後のごみの処理、落葉の季節には毎日大きなゴミ袋いっぱいの落ち葉の清掃など、その季節だけと言えばそうですが、その作業量はかなりのものです。
今の世の中、「楽しむ」為にはそれに対する「代償」がつきものですが、例えば遊園地に行くには「時間とお金」が必要です。海に行くにも山へ行くにも食事に行くにも何をするにも代償は必要です。ですから誤解を恐れず書かせて頂くと、「伐採されて遺憾」と主張するなら、されないための「代償」をどれだけ払ってるのかを今一度考えてほしいと思います。花見をすればごみが出ます。そのごみなどを花見をする前以上にきれいにして帰る方はどれだけいるでしょうか?紅葉の並木を楽しむ為に、毎日清掃をする人がどれだけいるでしょうか?それらを全て行政や人任せで「楽しめなくなった」というのはあまりにも無責任ではないでしょうか。
 他の人はやっていないので私だけするのは割に合わないとか、そんな義務はないと皆が考えている限り、楽しめるものがもっと減っていくことは仕方がないことでしょう。そんな日本にならないように願います・・・。

ニューハーフ

 先日社員の慰労を兼ねて、大阪ミナミにある「ニューハーフ」の店に行きました。そこには男性から女性へと完全に「工事」を完了した人から、半分だけ「工事」をした人、また身なりだけ変身した人まで様々でした。彼女?たちは、夜のお勤めや自己願望を満たす為に、整形や「工事」に多くのお金を費やし、その土台が出来上がったところで化粧などをされているのですから、一般の女性達と比べてもまるで引けをとらないばかりか、それはとても美しい容姿をされていますので、過去は男性の容姿であったなどとはとても想像がつかないくらいでした。そんな彼女たちと話をさせて頂いていると、非常に明るく、楽しく、お客様である私たちを楽しませてくれるのですが、彼女たちのプライベートな過去や現在の話を聞くと、想像以上に並々ならぬ苦労やつらい思いをしていることに驚かされます。
 彼女たちは小さい頃から心と体のギャップを親や兄弟や友人にも言えずに一人悩み、なぜ自分の体は女性ではないのか、それとも自分は他の人と比べて変なのではないのか等と苦悶し、そこで開き直れた人は自分が「ニューハーフ」であることの認識を周りの人たちにしてもらって日々を暮らせたようですが、開き直れずに隠し通した人などは世間体を考えて「彼女」を作ってみたりした人もいるようでした。
話はそれますが、彼女たちに言わせれば、「おかまとニューハーフ」は違うものらしいのですが、どう違うかと言いますと「おかま」は男性の外見で女性の内面を持っている人で、「ニューハーフ」は女性の外見で内面も女性という人らしいです。ですから、声以外は全て「工事」を行い、定期的に女性ホルモンを打って、より女性の姿になっていく努力をしているようです。何故声だけ「工事」しないかと言いますと、今の医療技術で「工事」をしますと、一生声が出ない危険性があるからと言うことでした。
 話を戻しますが、そんなきれいな彼女たちを遠目で見て思った余計な御世話は、今彼女たちは「工事」や「化粧」になどより非常にきれいになって輝いていますが、一般的に考えて普通の結婚ができる可能性が低いと思われますので、一生独身を余儀なくされる人も多いでしょう。そうなると若い今の内は今の仕事が出来るかもしれませんが、生きていく為に例えば全然違う職種に変わりたいと思っても、非常に選択肢が限られてきます。また、好意を抱いた男性がその気持ちに応えてくれることも可能性が低くなります。
 そんな運命を背負う彼女たちが、夜の華となって羽ばたいている今を十分に謳歌してほしいと願います・・・・。

人の悩みの儚さ

 今年も暑い夏も終わり、1年のうちで最も過ごしやすい季節「秋」になりました。早いもので今年もあと2ヶ月で、また慌しい年末を迎えることになります。以前のコラムでも書きましたが、年々歳を重ねるごとに1年という期間がだんだんと短くなってきて、今では1年という時間の感じ方は、小学生の頃でいうと3ヶ月くらいの期間という気がしてきます。
 歳を重ねていって昔と違うのはそれだけではありません。体力もそうですし、記憶力もそうですし、何もかもが段々と衰えていきます。また、これは恐らく私だけが知らなかった事だとは思いますが、最近私は運動量が減ったので肥えてきているのだとばかり思っていたのですが、実は、若い頃と同じ量の食事をして、同じだけの運動量をしたとしても、新陳代謝機能が低下している為にカロリーを消化しきれずに脂肪が蓄積されて肥えてくるらしいのです。それを聞いて「なるほど中年太りの要因はこれか!」と一人で納得している自分がいるのでした。そんな事が分かってからも、旺盛な食欲や飲酒欲が一向に減ることを知らず、日に日に体はドンドンと成長していき、今では学生時代の自分の写真を見る度に「ああ、おれもこんな頃があったんやなぁ」と深い溜息をついたりしています。そんな日本の現代社会に生息する「欲」という悪い虫を体中に飼いながら、世界中で起きている飢餓による暴動や戦争のニュースを見るたびに、何かしら非常に情けない気持ちになるのは私だけでしょうか?
 話は変わりますが、最近ニュースを見ていて感じることは、大規模な地震や津波、ハリケーンなどの自然災害が、世界各地で頻繁に起きていることが、昔から今のように頻繁にあったのかな、ということです。確かに私が幼い時にそんなニュースを見ても、最近に見た事のように鮮明に覚えてはいないでしょうからそれを差し引いて考えるべきだとは思いますが、それを差し引いて考えても、今世界で起きている自然災害の規模や数は、多くないでしょうか?地球が誕生してから46億年という途方もない年月が過ぎていますが、その中で人類が誕生してから現代文明を築き上げるのに、わずか1万年しか経っていない中で、現代叫ばれている環境汚染が始まったのはわずか100年余りの出来事です。もし地球の46億年の歴史を1週間とすると、100年という年月は実に0.01秒という目にも留まらない時間です。その時間で人間は核実験や大気汚染、海洋汚染などを行っているものですから、地球さんも「なんかムズムズするな、ハックション!」としているのかも知れません。
 そう考えると人間の悩みなんて、ほんとに儚いものですね・・・。

たばこ

 「ちょっとちょっと、聞いてよ。今日、電車降りて歩いていたら、前で歩いてる人が煙草に火をつけて吸い出したのよ。そしたら煙がボワーっと私のところに来て避けきれんかったわ。私タバコだめじゃない。だから急いでその人の前に出るように走ったけど、ほんまムカついたわぁ。」
 最近、喫煙者のマナーや分煙などについて、いろいろなところでよく聞くようになってきました。確かに人ごみでの喫煙や、密室での喫煙は周りの方の迷惑になるばかりでなく、健康そのものにも悪影響を及ぼしたり、子供の目の位置と持っているタバコの位置は近く、非常に危険なことなどから喫煙者はそのあたりをよく状況判断する必要があります。また、灰皿のない野外や、路上などでの喫煙は、携帯灰皿を所持していなければ吸殻の処理に困り、結果路上に捨ててしまったりしますので、当然のこととは思いますが、そのあたりの喫煙マナーもしっかりと守ってほしいものです。
 そういう私も実は喫煙者で、最近はどこの場所に行っても喫煙が制限されているので、非常に肩身の狭い思いをします。職場でもほぼ禁煙となっていますので、喫煙者のために別途喫煙ブースを設けたり、外へ出て喫煙したりしていますし、公共の場所ではほぼ喫煙できないようになっています。そうなると、ここまで「喫煙者の自由を奪うなよ」と叫びたくなる喫煙者もいらっしゃるとは思いますが、非喫煙者の健康と権利を考えれば当然の処置であると思います。確かに喫煙者の私でさえ、例えば近鉄特急の喫煙車両には煙で目が痛くて乗りたいと思いませんので、非喫煙者の方はなおさらの事でしょう。
 話は変わりますが、数年前の新聞記事でイギリスの役所が喫煙者の労働時間を数十分引いて終了時間をその分延長させるとか、残業時間から棒引くというような措置を取るというものが載っていました。その時点では「何でタバコを吸うだけで労働時間を延長せんとアカンのかな」という疑問が残りましたが、今になってようやく分かりました。その当時の日本で分煙という文化があまりなく、オフィスでタバコを吸いながら仕事をしていたものですが、今は結構分煙が徹底されていて、喫煙するには喫煙ルームへ行くか、外へ出て喫煙することになります。そうなりますと、なるほどその時間は、仕事に従事していないわけですから勤務時間から差し引かれて当然ですし、非喫煙者から見ればそうしてもらわないと不公平に思えます。
 世間の風潮ではないですが、私ももうタバコをやめたいと思い、何度も禁煙を繰り返す意思の弱い自分がいるのでした・・・。

キャンプ3

 またまた、毎度恒例の甥っ子姪っ子主導型キャンプへこの夏も行ってきました。今年は、いつもキャンプするところに予約するのが遅く空きが無かったので、赤目のキャンプ場という非常に近場に行ってきました。しかし、私達大人が「こんな近場で」と思っても、子供達にとってみればそれこそどこでも同じようで、全くいつもと変わりなく楽しんでいました。
 今年のキャンプの主題は「節約生活」と題し、子供たちが持ち寄った参加費3,000円づつを、いかに残すかを男子チームと女子チームに分かれて競いました。いつもは少し遠出をするものですから、出発の日の昼食はファーストフードなどで済まし、夜と次の日の朝食を買えばよかったのですが、今回は車で10分程度の場所なので、その日の昼食から買い出さなければいけないという、「節約生活」には非常に厳しい条件でした。そんな中、子供たちは一生懸命に考えていたようですが、私は買い物から調理・食事まで今回は本当にほとんど口を挟まず、言い方を変えれば殆どほったらかしでやらせていました。
 いざ調理が始まり、いったい何を創るのかと眺めていましたら、男子は冷麺を茹でてタレをかけただけ、女子は茹でうどん一人一玉をだし汁につけるだけの昼食でした。まあ、昼食だからこんなものでも良いかと思っていましたら、夕食は男子が肉野菜炒めとご飯、女子はチーズフォンデュと聞こえだけは良いですが、使っている材料が極端に少ない食事でした。また次の日の朝食は男子はそうめん、女子は食パンにケチャップを塗ってチーズをのせただけの自称「ピザパン」でした。それらの食事がすべて終わったところで思ったのですが、さすがにTV番組のように、「安くて見栄えやボリュームのある料理」は、しっかりとしたアドバイザーが存在してこそ成り立つものであり、子供たちだけでは当たり前に難しい命題のところを、今回はあまりにも関知しなさ過ぎたことが少し失敗したかなと思いました。
 次の日は赤目四十八滝に行き、昼食には朝に子供たちが握った形の悪い約1升のおにぎりを平らげました。その後、子供たちは信じられないくらいの元気さで上っていくので、私は、途中で待っているからと途中リタイヤし、下ってくるのを寝て待っていました。
 そんな「節約生活」1泊2日の今回のキャンプは、食事だけ参加の大人4名と3名の計7名、子供6名+幼児3名の計9名、総計16名のキャンプ場代や飲み物、お酒などすべてを含めた総使用額がなんと27,000円という一人当たり1,687円の激安のキャンプになりました。

駒大苫小牧暴力事件

 「暴力・・・乱暴な力、不当に使う腕力、合法性や正当性を欠いた物理的な強制力」(大辞泉引用)
 人が人として安心して社会生活を送っていく為には、犯罪や暴力行為などは無いに越したことはありません。しかし、現実的には人類の過去を振り返ってみて見ますと、長い歴史の中で争いや対立のない社会が長く続くことはあまり無く、「人類の歴史=争いの歴史」と言っても過言ではないように思います。それは現在のように文化・文明が栄えていない時代には、「食料を確保」ために争いや殺生は必要ですし、縄張りを確保する為や種の保存のために争いをするのは当然の行為で、それが非難されることは当然無かったと思います。現在では直接的にそのような行為は基本的にしませんが、形は違っても同じようなことはしています。「食料を確保」ではなく、誰かが殺生をした食材を使って食事をします。また受験戦争や出世争い、同業他社との争い、果ては小遣い額の攻防戦など常に争いや競争にさらされています。そう考えますと、「生きていく」ために必要な争いをしていた頃の人類と、ある意味「見栄」のために争いをしている今の先進国の人たちとはどちらが幸せなのか分からなくなってきます。
 話は少し脱線しましたが、暴力とは冒頭の説明にありますように、「合法性や正当性を欠いた物理的な強制力」とあるように、例え人を殴ったとしてもその行為に正当性や、殴られたほうが納得できるものがあれば「暴力」とはならないはずです。先日の高校野球夏の大会の覇者である駒大苫小牧の野球部長暴力事件は、それを考えさせられる事件だと思いました。報道では部長が平手で数回とスリッパで叩いたことが「暴力された」となって親に伝え、親は校長に抗議の電話があったということですが、その事実は報道機関の意図次第でどのようにも取れる伝え方をしますので、その「暴力」がどれほどのものだったのかは計り知れませんが、報道を素直に受け取っている限り、問題にするような出来事ではないような気がしました。恐らくその事実を公にすべきかすべきでないかは非常に悩んだことと思いますが、しかしもうひとつの大きな問題が残るこの出来事をその関係者は本当の意味で分かっていたのかという疑問が残ります。「暴力」と取られるような行為をした部長、それを聞いて校長に抗議した親、それを公表した校長。それは自分の感情、自分の保身などみんな自分のことしか考えていないように思えます。
 本当に考えなければ行けないのは、これを公表することにより、一生そのことについて傷を背負って生きていかなければならないのは、保護をしようとした生徒なんだということを・・・。

ガン

 彼は、私と知り合ったときから貧血症だったようで、学生時代の野球部の練習のランニングや基礎体力運動をしているときには仲間からいつも一人遅れていました。また彼は、自己主張が強くなく、人の言うことを良く聞くと言うか、何でも人の言うことを訊く性格で、どちらかと言えば目立つ存在ではありませんでした。
 そんな彼が、ある友人からの電話で入院したということを聞き、また別の学生時代の友人とともに早速お見舞いに行ってきました。病室で10年ぶりくらいに再会した彼は、頬が痩せこけ、腕は枝のようになり、お腹はパンパンに腫れていました。もうお分かりと思いますが、彼の病名は「ガン」です。私は久々に再会した彼のその姿に、一瞬言葉を失いましたが、その姿とは裏腹に「お~、やっさんひさしぶり~。」と非常に明るく声を掛けてもらったので、こちらとしても普通に話をすることが出来ました。
 病院を後にした友人と私は、「ガン」を告知された彼の心境や、その事実、また自分たちが何をしてやれるのかなど、色々と話をしましたが、やはり心の中に何か重たいものを抱えてやりきれない気持ちになりました。
 私は今、仕事の都合で名張へは週に1回程度帰るという生活のため、帰ってくる度に彼に会いに行きました。会う度に本当は何か気の利いた話でもしたいと思うのですが、実際には取りとめのない話をしてしまい、帰ってから何とも言いようのない気持ちになりました。そんなある日、一週間前まで元気に座って話しをしていた彼が、前日にベットから起き上がれなくなったようで、少し弱音を吐いていました。私は本人の辛さや、死への恐怖や不安など分かるはずもないのですが、やはり気弱になっている彼に何か元気つける言葉を、と思い話し始めました。
 「人間というのは本当に願ったことは実現するはずや。それは願望も然り、生きたいと思う願いも然り。本心でそう願うなら今がんばれるはずや。それが辛いと思うなら、その願いは本物で無い証拠やで。だから一週間後にまた来るから、そのときはベットに座って「おう!」と迎えてや」
そんな話の後に彼は尿意をもよおしたらしく、動かない身体を何とか動かそうとしました。その時私は、「詰所行って看護士さん呼んで来たるわ」と反射的に言ったところ彼は「こういうのを自分でするという気持ちになんと、アカンねんな。溢してでもがんばるわ」と起き出そうとしました。
 それを見て、偉そうなことを言う事は言えても、本筋は何も分かってないぞ、と猛烈に反省させられました。そして私はそれ以上何も出来ないまま、会う約束の日の朝、彼は天に召されてしまいました・・・。

駐車違反

 最近ある路上で、駐車違反のレッカー移動をしている場面に遭遇しました。駐車違反というのは、交通の妨げや交通事故を誘発することとして当然ドライバーとして、してはいけない行為だとは思いますが、世間では「運が悪かったな」という風な考え方で捉えられたりしています。それらはスピード違反や、シートベルトなども同様のことです。 
 そんなことを仕事場で話していますと、駐車違反の話の中である人が「違反車をななめで持っていっているときあるよね」と発言しました。それを聞いて私は「ななめに??」と、そんな持って行き方してるかなぁと発言した本人に聞いてみたところ、思い違いが発覚しました。
私は、「ななめに車を引いていく」と言われて、水平方向にななめに引いていく事(真上から見て進行方向に対し、ななめを想像したのですが)、発言者の意図は車の前方を引っ張り上げて引いていく事を言っていたようで、それは横から見て「ななめに」なっている状態の事でした。そのお互いの思い違いが分かり爆笑していたのですが、それは私の方が普通の捉え方をしていないにせよ、日常の会話の中でよくある光景に思えます。
 あとでよく考えてみますと、それは話している相手方を自分がどういう風に思っているかや、自分自身が経験してきたもの、また日常身近にある出来事や、家庭環境や趣味などによって、同じ言葉や単語でも取り方によって全く別の意味に捉える事があることを思い出しました。
 例えば単語として有名なところで「あほ」と「ばか」なんかは、関西と関東の方で感じ方が逆になります。関東の方は関西で何気なく使っている「あほ」を言われると、本当に馬鹿にされたように捉えるようで、逆に関東の方がよく使う「ばか」は関西人には「あほ」と言われるより馬鹿にされたように感じます。また、言い回しの違いからは、関西ではファイルなどを相手に手渡して「なおしといて」と言えば、しまってくれますが、関東で「なおしといて」と言うと、暫しファイルを眺めてから「どの部分を訂正するんですか?」と言われたりします。更に相手によって変わることとして、自分よりも人生経験が豊富で尊敬できる人から「まだまだ勉強が足りんな」と言われると、言われたほうも「自分はまだまだやな」と素直に取れますが、そう思っていない人に言われると「何でお前に言われなあかんねん」となります。
 そう考えると、地球上の他の動物では使うことのできない、意思を伝える為の最強の媒体としての「言葉」は、時として発言者の意図しない取り方をされる危険性がある事を、もう少し認識しなければと思いました・・・。