ことわざ

 「**の爪の垢でも煎じて飲め」や「石の上にも3年」「猿も木から落ちる」など日本には古くから伝わることわざが3000語を超えて存在します。また世界の国々でも同じようにことわざがあり、その国々によって言い方は違いますが、同じ意味のことわざが数多く存在します。文化や生活習慣や環境などが違っても、同じ人間同士は同じような失敗や悩み、教訓を得、後世の人達に語り継がれていかれるものなのでしょう。
 そんな数多くのことわざは、これだけ科学や技術が発達した現在でも私たちの日常生活に非常に身近なもので、ある時は物事を判断するときの指針になったり、またある時は失敗したときの教訓になったりします。特にそんな時にことわざは本当によく考えられたものだなあとしきりに感心させられます。
 そんなことわざやの事を思っていて、ふと不思議に思う事がありました。それは、こんなすばらしい言葉を「誰が考えたのか?」ということです。近代小説は近い時代の著書の為に作者が判明している事は勿論のことですが、遥か昔の平安時代に創られた枕草子や源氏物語などの随筆などの作者もはっきりと作者が分かっているのに、なぜことわざの作者が分からないのかということです。冒頭にも書きましたが、日本のことわざはざっと数えただけで3000はあります。
 そう考えますと国が違えば当たり前ですが、同じ国のことわざでも一人の人間が作ったということは考えにくいので、全然違う人が作ったと仮定します。また、その作った時期は同じ時期かというと、これまた同じ時代に一気に作られたとも考えにくいので、全然違う時期に作られたと仮定します。すると、今はこれだけの数がありますが、時代を遡っていくと段々とその数が減っていきある時代で0になってしまう事になります。0になるのはまあそんなものかなという感じではありますが、じゃあどうやって増えていったのかという疑問が残ります。仮に自然発生的に増えていったとして、TVやラジオが無い時代に全国にどうやって同じ言葉で広まっていったのか、ビデオやラジカセなどが無い時代に人の言い伝だけでこれほどの数が残ったのか、時代とともに増えていくものならこれから未来にかけてもどんどん増えていくものなのか、結局人間は国や文化や生活習慣が違っても、同じような考え方や行動をとって同じような間違いをし同じような反省をするものなのか、と容量の少ない私の頭の中は??で一杯になりました。 
 こんな誰にも答えてもらえそうに無い事を考えて不思議がっている私の状態を「ことわざ」ではどう表現するのでしょうか・・・。