駒大苫小牧暴力事件

 「暴力・・・乱暴な力、不当に使う腕力、合法性や正当性を欠いた物理的な強制力」(大辞泉引用)
 人が人として安心して社会生活を送っていく為には、犯罪や暴力行為などは無いに越したことはありません。しかし、現実的には人類の過去を振り返ってみて見ますと、長い歴史の中で争いや対立のない社会が長く続くことはあまり無く、「人類の歴史=争いの歴史」と言っても過言ではないように思います。それは現在のように文化・文明が栄えていない時代には、「食料を確保」ために争いや殺生は必要ですし、縄張りを確保する為や種の保存のために争いをするのは当然の行為で、それが非難されることは当然無かったと思います。現在では直接的にそのような行為は基本的にしませんが、形は違っても同じようなことはしています。「食料を確保」ではなく、誰かが殺生をした食材を使って食事をします。また受験戦争や出世争い、同業他社との争い、果ては小遣い額の攻防戦など常に争いや競争にさらされています。そう考えますと、「生きていく」ために必要な争いをしていた頃の人類と、ある意味「見栄」のために争いをしている今の先進国の人たちとはどちらが幸せなのか分からなくなってきます。
 話は少し脱線しましたが、暴力とは冒頭の説明にありますように、「合法性や正当性を欠いた物理的な強制力」とあるように、例え人を殴ったとしてもその行為に正当性や、殴られたほうが納得できるものがあれば「暴力」とはならないはずです。先日の高校野球夏の大会の覇者である駒大苫小牧の野球部長暴力事件は、それを考えさせられる事件だと思いました。報道では部長が平手で数回とスリッパで叩いたことが「暴力された」となって親に伝え、親は校長に抗議の電話があったということですが、その事実は報道機関の意図次第でどのようにも取れる伝え方をしますので、その「暴力」がどれほどのものだったのかは計り知れませんが、報道を素直に受け取っている限り、問題にするような出来事ではないような気がしました。恐らくその事実を公にすべきかすべきでないかは非常に悩んだことと思いますが、しかしもうひとつの大きな問題が残るこの出来事をその関係者は本当の意味で分かっていたのかという疑問が残ります。「暴力」と取られるような行為をした部長、それを聞いて校長に抗議した親、それを公表した校長。それは自分の感情、自分の保身などみんな自分のことしか考えていないように思えます。
 本当に考えなければ行けないのは、これを公表することにより、一生そのことについて傷を背負って生きていかなければならないのは、保護をしようとした生徒なんだということを・・・。