虐待

 先日父親が、「自分を腹立たせたから」という理由で娘の小指を切り落とさせた事件がありました。また母親は子供が「泣いてうるさいから」という理由で床にたたきつけて子供が死亡するという事件がありました。母が「食事も与えず虐待を行い、父はその行為を見過ごしていた」為に子供が死亡する事件がありました。そんな「普通の感覚」では到底信じられないような事件が、世間では数え切れないくらいの多さで発生しています。そんな事件を知る度に、皆さんもそうだと思いますが、私も非常にいたたまれない気持ちと、その親に対する憤りで一杯になります。
 それとは全く別の事ですが、参議院の委員会で年金法案が、あのドタバタ劇の中で賛成多数で可決されました。この可決の様子をテレビで見る限り、私も含め世の人々の大多数である一般人が思う会議の感覚からして、採決の方法が「普通の感覚」では到底考えられない手段と方法で可決された出来事でした。
この二つの出来事の共通点は「普通の感覚」では考えられない出来事です。でもよく考えてみますと「普通の感覚」というのは、俗に言う「一般常識」や「風習や慣習」から「この場合はこうするもの」というものであり、それは即ちそこの中にいる大多数の人が「こういうふうに思う」ことであると思います。そのことについて誤解が生じることを敢て申し上げますと、前者も後者も「閉ざされた環境」の中で、強い者や多数の人が「これでいい」と思ったことがその中で「常識」になり、それ以外の外にいる人たちから見て「普通の感覚」からかけ離れた行動をとるようになるように思えます。
 しかし、前者は人道的に許されるべきことではありませんし、こんなことが再び起こらないように、それぞれの立場で対策をとっていかなければなりませんし、自分の身近なこととして話し合いを行う為にも、報道も行い周知していく必要があると思います。現実に私の会社でもそういった話題がのぼり話をすることがあります。しかし後者はこれからの私達の生活に非常に重要な事柄を決定している事を、前者と同様に報道がされているにも拘らず何の話題も出てきません。それは恐らく私を含め、前者は「自分さえしっかりしていたら何とかできる」と思うことであり、後者は「自分ひとりでなんともできない」と思っているからだと思います。でも本当は前者も後者も同じように捉えられるようにならなければ世の中が変わっていかないことを、心の奥底では分かっているはずです・・・・・。