法事

 先日、友人のお父様の葬儀に参列させていただきました。友人は当然の事、そのお父様もよくお世話になった方で、私自身も非常に残念で悲しい思いで一杯でした。
 以前の、コラムにも書かせていただいたように、私も4年ほど前に父を亡くしているので、その友人のこの数日間のことを思うと、私もそういった経験をしているだけにとても辛い思いでした。
 今まで私は、知人や友人の家の葬儀に参列させていただいても、殆どの故人がその友人や知人の祖父・祖母であったりした為に、直接に面識がない方が大半でした。しかし最近は徐々に面識のある方の葬儀に参列するようになり、私も年々歳をとってきているんだなあと実感させられます。そんな中、私の父の葬儀や3回忌などの法事を行っているときに、私自身が実感したことを思い出しました。 自分の家族が亡くなった時は、当然に深い悲しみや絶望感で悲しみ又、苦しむものですが、数時間が過ぎればお通夜の手配や葬儀の段取りなどの現実が迫ってきます。普通の方であれば、こういった段取りなどは一生のうち何十回も行うものでもありませんので、悲しむことも出来ずに葬儀屋さんの助言に従って段取りを組んでいきます。そして葬儀が終わればすぐに今度は参列していただいた方の確認や香典の整理などを始めます。そんな時になぜこんなバタバタしないといけないのかとか、何の為にこんなことをやっているのか等と考える余裕も無いまま1週間ほど経ってから、ようやくひと段落つけ、初めて故人のいない生活が始まったことに気がつきます。そして久々に集まった親戚や知人の事も思い出すようになります。
 私が子供の頃に過ごした正月は、父が7人兄弟の長男だった為、ただでさえ狭い狭い住宅の中に、その兄弟と家族が集まってきて、総勢30個程の口がああでもないこうでもないと勝手にしゃべっていたので、それは本当に凄い事になっていました。しかし時が経つにつれ、そのすごい集まりも徐々に無くなってきまして、今となっては昔のように全員が集まるようなことは無くなりました。こんな事を言うのは不謹慎なのかもしれませんが、先述の法事のときに思ったことがこういうことです。
 普段生活をしていたら、何も無ければ集まらない親戚や兄弟も、その人が亡くなったことによって行う法事あるからこそ集うことが出来るんだなと。違う言い方をすれば、そういう集いをする為にこういった法事というものがあるんだなと実感しました。 
 こんな物事の捉え方は間違っているのでしょうか・・・?